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コラム第3回:東京オリンピック招致を目指して①


1940年の東京オリンピックの招致に粉骨砕身し、日本スポーツ界で「オリンピックの父」と呼ばれる嘉納治五郎。しかし、これを最初に言い出したのは嘉納自身ではなく、当時の東京市長である永田秀次郎だったのです。
今回は、この永田氏の生い立ちについてご紹介しましょう。

*本記事は、和田孫博氏の文章をもとに再構成しています。

時代に翻弄された不遇の東京市長、永田秀次郎

 
永田の出身は、兵庫県淡路島。秀才として知られ、高等学校卒業後には司法試験と高級官僚の登竜門だった高等文官試験に合格。故郷の洲本中学校の校長を勤めました。その後官界に入り、内務官僚として各地で要職を歴任します。やがて政治家・後藤新平に目をかけられ、後藤が東京市長になった際に永田は助役に任命されました。そして1923年5月、その後任として東京市長に就任。そのわずか4ヶ月後、9月1日に関東大震災が起こったのです。

永田は市長として、首都復興に全力で取り組みました。しかし、市政の運営について市議会と衝突し、翌年の9月には辞任を余儀なくされます。
永田は「青嵐」という名を持つ俳人でもあり、この頃の心境を読んだ「震災雑詠」という句を寄せています。二首の句から、復興半ばでの辞任という永田の無念が感じられますね。

  • 行秋や 止まりし儘の 屋根時計
  • 残る児に 連れ帰る児に 秋の風

6年後の1930年、永田は再び東京市長に任命されます。大正から昭和に年号が変わり、東京の復興もかなり進んでいました。永田は東京の復興を世界に向けてアピールすべく、万国博覧会とオリンピックの同時開催を思いつきます。目標は、日本建国2600年の節目に当たる1940年。しかし、オリンピックを実現するにはまずIOC委員の賛同を取り付けなければなりません。そこで永田は、大日本体育協会の嘉納治五郎を訪ねました。
 

▶次回は「第4回:東京オリンピック招致へ」
世界恐慌が襲うなか、アジアでのオリンピック開催を強く希望し、
東京招致に向けて尽力した嘉納治五郎の活躍をご紹介します。

 

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