December 10, 2019

【緯度経度】 北米柔道指導者の風雪(06.12.16産経新聞掲載記事より)

【緯度経度】 北米柔道指導者の風雪(06.12.16産経新聞掲載)

 昔の柔道試合の展開がなまなましく浮かびあがった。激しく動く相手がこちらの柔道着をがっちりとつかんだまま、捨て身になって、足元に飛び込んでくるのだ。そして下から片足を私の腹に当てて、勢いよく跳ねあげる。自分の体がすうっと宙に浮き、半回転して、横倒しに畳に落ちる。そのときの「しまった」という嫌な感じまで、つい思いだした。

12月はじめ、加藤良三駐米大使が日本人の北米柔道指導者たちを招いて催した夕食会でのことだった。ワシントンの大使公邸でのその集いで日大柔道部出身の柴田錬蔵氏に再会した。

1964年5月の全米柔道選手権大会の軽中量級準決勝で私は柴田氏と対戦し、巴(ともえ)投げで倒されたのだった。私の留学中、ニューヨークの万博会場の巨大な屋内スタジアムでの大会だった。慰めは試合時間いっぱい闘って、判定負に持ち込んだことと、その柴田氏がその級の全米チャンピオンとなったことだった。

柴田氏も42年ぶりの再会を喜んでくれた。名刺をみると、「柔道師範7段」とあった。詳しく聞くと、60年代以降ずっと米国西海岸で柔道を続け、海兵隊の正規の師範を務めたほか、フジモリ大統領に招かれ、ペルーでも指導にあたったという。その結果、弟子からは米国の五輪選手が3人も出たとのことだった。

柴田氏は柔道指導だけでは収入が少なく、生活に苦労したことまで率直に打ち明けた。母校の推薦でロサンゼルス地区クラブの師範として渡米したものの、給料が少なく、他の仕事を自分で探し、なんとか柔道を一貫して続けたという。

同じ苦労は国士舘大学出身の小笠原長泰氏も語っていた。いまでは東部のニュージャージー州で自分の道場を開く同氏も67年に渡米してから昼間は建築事務所で製図を描き、夜は柔道を教えるという二重勤務を長年、強いられた。ちなみに小笠原氏は9・11テロでの“第四の旅客機”乗っ取り犯に立ち向かった米国青年の師範だった。

加藤大使は北米各地に定住してきたこれら柔道指導者たちを日本政府代表としては初めて3年前に慰労したが、今回さらに輪を広げ、22人を招いての宴となった。同大使は「柔道指導を通じての米国、カナダとの友好や理解の促進に感謝します」と謝辞を述べた。

米国とカナダの公式登録の柔道人口は合計7万ほどだが、米国柔道連盟幹事タッド・ノルス氏の言明では実際に練習をしているのは米国だけでもゆうに10万を超えるという。この両国での近年の柔道の広がりは50年代から70年代にかけ日本からやってきた学生柔道の元名選手らの指導によるところ大だった。

日本で生まれ育った柔道の外国への普及は間違いなく日本の文化や価値観の対外発信にもつながるのだが、ふしぎと日本側でこれら日本人指導者たちの労苦が認知されることは少なかった。海外での日本語教授、華道や茶道の指導、さらにはビジネスがらみの技術指導などが日本政府機関からも認められ、支援されるのに対し、北米での柔道は日本代表の形の人たちが指導に献身しても、日本側からはほとんど無視されてきた。

柴田氏や小笠原氏のように長年、柔道指導だけでは生活が苦しすぎたというのも、そんな現実と無関係ではないだろう。もっとも母国を離れ、北米で柔の道を歩むのも、個人が決めた選択である。だから個人で苦労するのも当然ともいえようが、指導者たちの話を聞くと、それぞれが日本からは最も離れた環境で自分ひとりの技や力だけに頼り、武者修行同然の幾多のチャレンジを経て、地歩を築いた辛苦の風雪の物語である。

大使の招宴にカナダから参加した中央大学出身の中村浩之氏はモントリオールで450人の門弟を抱える「志道館」道場を経営するだけでなく、カナダ政府から財政支援を得る全国柔道訓練センターの首席コーチでもある。だが68年に当時、勤めていた博報堂を退職し、移民としてカナダに渡った中村氏も、母校からも講道館からも、まして日本政府機関からも支援は皆無、まったくの単身でカナダでの柔道活動をゼロから始めた。小兵ながら日本の学生柔道でも最高レベルだった技量で各地の道場で実力を示し、指導権を確立するまでには負傷の挫折もあり、限りない労苦があったようだ。

いまではカナダ柔道の名実ともに頂点に立った中村氏は「日本の柔道を必死で広めた結果、皮肉にも日本とはすっかり縁遠くなりました」と苦笑する。日本の事物の対外発信とか国際化の究極は意外にもこうした形をとるのかもしれない、と実感させる述懐だった。

(ワシントン 古森義久)