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コラム第9回: 今も続く講道館精神と、灘中学校創設


1920年、嘉納は教育行政の一線から退きます。しかしその後も国際オリンピック委員会(IOC)委員として欧米に赴くたび、教育事業の視察を積極的に行っていました。
1922年には文化活動の推進として講道館文化会を設立。嘉納の講道館精神を表す「精力善用」「自他共栄」はこの時に発表されました。「精力善用」は自らの持てる力を最大限に発揮せよという教え、「自他共栄」は助け合い譲り合って自他ともに幸せになろうという呼びかけです。この教えは、現在でも若者たちに届けられています。

*本記事は、和田孫博氏の文章をもとに再構成しています。

 

「理想の学校を創設したい」という願い

嘉納は、自ら理想とする教育を実現する学校を創設しようと考えていた時期がありました。千葉県我孫子に土地を取得し、校門から校舎予定地までの並木道まで完成していたのです。しかしIOC委員としての仕事に加えて、1922年には勅撰の貴族院議員に就任。多忙を極めていた嘉納はこの計画を断念します。その矢先、出身地である神戸の御影から「私立中学校を創りたいので力を貸してほしい」と相談を受けました。

明治以降、阪神地域は大阪の財界人が好んで居を構え、子弟教育に熱心でした。そのため公立中学校への進学は激戦を極めていたそうです。そこで魚崎・住吉・御影地域の有力者は、過剰な受験熱を緩和する私立中学校を創設しようと嘉納に顧問を依頼したのです。前述のように、理想の学校創設の夢を断念していた治五郎は、二つ返事で顧問を引き受け親戚筋に当たる菊正宗や白鶴といった大手酒造家などに資金提供の依頼までしたのでした。

そして嘉納は東京高等師範学校で見どころのある教え子を校長に推挙。白羽の矢を立てられたのが30代後半という若さで京都の亀岡高等女学校校長を務めていた眞田範衞でした。眞田が初めて校地を視察したときは「校地となる住吉川沿いの空き地はまだただの草原だった」と、後に回顧録に書いています。
 

灘中学校創設と、若者の教育に捧げた生涯

「灘」が酒造りの地として全国に知られることから、校名は「灘中学校」に決定。1928年の春、開校にこぎつけました。嘉納は何度も足を運んで眞田の相談に乗り、建学の精神として「精力善用」「自他共栄」を掲げました。これは現在に至るまで、校是として灘校教育の精神的柱となっています。

嘉納は学校運営の実務一切を眞田に任せつつ、たびたび訪問し生徒たちを講堂に集めて訓話を施しました。まず嘉納が建学の精神を注入し、眞田がそれを具現化するため、教員や生徒の自由・自主・自律を保証する校風を築いたといえるでしょう。

嘉納はその後も、柔道をはじめとするスポーツや文化活動の振興に努め、体調不良で欠席した第8回パリ大会を除き、第11回ベルリン大会まですべての五輪にIOC委員として出席し、欧米各地で講演をしています。国内でも「精力善用」「自他共栄」についての講演を行い、柔道の動きを取り入れた「精力善用国民体育」という体操を考案。この普及のため全国の学校を巡回し、60歳を過ぎてもなお若い世代の健康と教育に尽力し続けたのでした。

 

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