まいんど vol.27 | 全日本柔道連盟
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での川口孝夫氏と野村豊和氏の素晴らしい決勝戦も覚えています。彼らの技術は高いレベルであり、どの選手よりも速かった。その日に見せられた柔道の魅力に多くの人が感動しました。――フランスナショナルチームは、合宿のために日本を訪れた最初の外国人チームです。そのときの印象はどうでしたか?フランス代表チームの、私を含む7人のメンバーと1人のコーチが1966年に、3か月間の合宿のために日本に行きました。そして、日本での合宿は、フランス柔道の構築に貢献した主要なステップの一つを形成しています。私たちの最初の合宿は天理でした。私たちが土曜日の夜に到着したとき、駅で天理大学の柔道部の学生たちが制服を着て坊主頭だったのを見て驚きました。私たちにとって、それは別の惑星に到着したようなものでした。そして月曜日からトレーニングを開始しましたが、初日から、私たちは限界までやらなければならず、大変な合宿になることを理解しました。私たちは毎日「元立ち」でした。このような練習メニューは私たちにとって新しいものでした。また、私たちは柔道の稽古では、あまり多くの乱取りをすることに慣れていませんでした。当時のフランスでは、柔道の稽古は主に多くの打ち込み、技の習得で構成されており、乱取りはそれほど多くありませんでした。私たちが彼らの攻撃的な柔道の練習に慣れていなかったところに、学生たちは自分の意志を押し付けるように私たちにぶつかり、テストし、私たちがギブアップすることを望んでいました。畳の上で彼らはとてもアグレッシブで、残念ながら3か月間は友だちができませんでした。毎日話しに来てくれた岡野功氏を除いては。今は、日本の人たちの外国人に対する態度は大きく変わったと思います。これはおそらく、外国の柔道チームの頻繁な訪問、柔道の国際化、そしてパリ国際などの1970年代に始まった大きな国際大会への日本の参加によるものです。1970年に再来日したときの学生たちの態度はとても成熟していて、私たちが何を期待するかをよく知っていました。私たちが天理大学や他の日本の大学や他の道場に行くことができたのは、粟津正三氏が日本のいくつかの道場に受け入れの手配をしてくださった結果でした。――選手としてのキャリアをどのように終わらせましたか? そしてその後、何をしましたか?試合に勝てなくなったときには、十分な距離を取り全体を見渡す必要があり、私は自分がミュンヘンオリンピックの代表に選ばれないと気付いたときに引退を決めました。そして翌1973年に、フランス柔道連盟は私にパリ北部の県の柔道連盟の専門家としての仕事を提供してくれました。そして1975年から、ジュニアフランス代表チームの監督になり、1978年末にはシニアチーム監督の依頼がきました。当時、コーチは特定の体重カテゴリーを担当していませんでした。私はこのシステムが気に入らなかったので、すべての階級の柔道を平等に扱いたいと思いました。皆に希望を与えたかったのです。優れたコーチは、全員のレベルを上げることができなければなりません。どの選手も各自の稽古の前に、自分自身に挑戦し、明確な目的を持つ必要があります。優れたコーチになることは、1つの個性のリーダーではなく、チームリーダーになることです。――あなたの経験による、良いコーチとはどんなコーチですか?優れたコーチは、費やす時間を計算するのではなく、寛大でなければなりません。指導する選手に奉仕をしなければなりません。彼らに夢を与え、選手として感じたことを伝え、すべてが可能であることを認識させなければなりません。優れたコーチに必要なことは、何よりも人間的であり、同時に厳格であることです。そして、選手を可能な限り最高のレベルに引き上げるには、コーチ同士の調和がなければなりません。柔道は個人競技ですが、チームワークでもあるのです。――次の目標は何ですか?これまでに学んだことすべてを後継者に与えることです。私が柔道の九段に認められたことには、自分自身感動しました。柔道は私の人生そのものです。そして、九段としての私の義務は、自分自身がいい状態でいることです。人として誰かが何かを受け取るたびに、恩返しをしなければなりません。ですから、私は肉体的にも精神的にもそれができる限り、恩返しをする準備ができています。私の仕事は赤帯(九段)にとどまりません。それは私が壁に置きたいトロフィーや賞状でもありません。私は畳の上にいて、動くことができる限り恩を返さなければならないのです。――要約すると、柔道があなたの人生にもたらしたものは何ですか?柔道は私を成長させ、世界の別の見方をさせ、別の生き方をもたらし、私をより寛容にしました。柔道は何よりも人生の教訓です。柔道は、私が多くの人々と交わりを持つことを可能にし、これは非常に重要なことです。柔道は私に多くの自信と、さまざまな問題に直面できるようにするためのより多くの力をもたらし、私に権威を与え、責任を負うことを可能にしました。日常生活のなかで、柔道は何が起こり得るかを予測して、良い分析をするのを助けました。柔道によって多くのことが学べました。必ずしも試合や競争の側面に関連するものではありません。柔道をするときとそうでないときでは、問題に対する反応が異なります。考え方も異なります。たぶんそれは柔道の戦いの側面に関係しているのかもしれません。それは、柔道の最中に、即座に解決策を見つけて問題に迅速に対処しなければならないという事実に関係しているのです。 選手時代、1968年のヨーロッパ選手権に出場した際のフェスト氏21まいんど vol.27

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